現代ではどこに行っても細かいルールが存在します。
恐らく、それは義務教育の時代からの習慣なのかもしれません。
「ここにはこういう風に書いてあったから」「うちではそういう決まりになっている」など、行動の指針となるようなものです。
あるいは、間違ったことをしている人を糾弾するためにもしばしばこの「ルール」は武器に変化します。
とりわけ、日本人はルールを破るということに非常に強い抵抗があるように思います。
まったく法には触れないような、内輪の決まり事ですら、律儀に守る人が多い。
逆に、ルールを厳格に決めることで、日本人は動きやすくなるのかもしれません。
「自由にやって大丈夫です」と言われて、すぐに行動できる人は少ないのではないでしょうか。
もちろん、集団の一要素として自分がその環境で働いたり過ごしたりする場合は、ルールが絶対に必要になります。それはその集団の目的を決めるコンパスだからです。
全員がそのルールを知っていることによって、ある程度統率の取れた行動をとることができるのですから、ルールの力は偉大です。
法律が最も重大なルールですが、日本はこういう力で守られている。ですから、そういうルールを学ぶということは極めて大事なのです。教養として法律学などが存在するのは正しいことと言えます。
しかし、ルールは信じてはいけません。
よく、「~~にはこう書いてあった」と言う人がいたり、「決まりだから」の一点張りでそこから一歩も話が進まないという人がいます。
それはそれで、ルールのことをよく理解しているので素晴らしいこととは思います。
しかし、そのルールが絶対的に正しいと信じてしまえば、そこから先は身動きがつかなくなります。ルールがないと行動できなくなってしまうのです。
まさに、ルールによって縛られてしまう状態ですね。
こんな状態を、フランス・ルネサンス期の思想家 モンテーニュはこういう風に言っています。
若者は自分の気力を呼び覚ますために、そしてそれを黴びさせ、臆病にさせないために、自分の規則をゆすぶらなければならない。規則を規律ずくめで引き廻される生活ほどばかげた、弱いものはない。
集団行動をするときのルールは最低限守るべきですが、つねにそういうルールに対して「疑問」を持つことが重要です。
そして、ときには「わかりました」と言いながら外れた行動をとる勇気も必要です。
では、どういう風に考えたらよいのでしょうか。
ここに、「面従腹背」という言葉があります。
表面だけは服従するように見せかけて、内心では反対すること。
表面もルールを破ってしまうような行動をとる人は当然集団からつまみ出されてしまいますから、そこは常識的に対応するのです。
ルールをわかっていると見せかけて、内心ではそのルールに対して強い反発をおぼえながら、「ここはこういう風にした方がいい」「自分ならこう動く」と考えることが大事です。
それらの積み重ねが、いざ自分がルールを作る側に回ったときにとてもよく作用します。
ただ上の作ったルールに従っている人は、いくつになっても面白みのない「正論」ばかり振りかざす人になります。
しかし、ルールを懐疑的な視点で見つめ、それでもルールを守る人は、よりよいルールを生み出すことができる。
それが、アイデアにもなれば自分なりの考え方にもなる。
ルールを守っているだけの人は、話にも行動にも面白みが足りなく見えます。そこに自分の思考・哲学が微塵も入っていないからです。
「してはならないこと」を最低限守って、あとはどこまで自分流でルールを破っていけるかを考えましょう。
人生を面白く生きる方法は、ルールを形無しにしない程度に型破りすることです。
他人が作っただけのルールに従うことに、ちょっとでも疑問をいだくことができたら、そこが突破口になって自分らしい人生を歩むことのできるスタート地点につけるのではないでしょうか。
誰も決めていないのに「夜遅くまで」「毎日」「他人から言われた仕事を」していると、あっという間にルールという名の回し車に乗って延々と同じ地点を走り続けることになってしまいます。
まずはルールをきちんと理解しましょう。そのうえで、そのルールに対して徹底的に疑問を見出しましょう。そして、自分なりの答えを見つけ出して、行動を始めるのです。